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明治維新150年シリーズ歴史的大偉業であった「大政奉還」

 2017年の10月14日は、150年目の「大政奉還」の日となる。徳川幕府が265年ぶりに 政権を朝廷に返還したのである。

 もしあの150年前の「大政奉還」がなく、「明治維新」の近代化が成し遂げられなかったならば、今の日本の繁栄はないのである。そう考えると「大政奉還」は大偉業として認められるだろう。 

 「大政奉還」の表舞台であった京都の二条城の大広間が一般公開されている。最近の研究では、二条城の大広間で徳川慶喜が直々に謁見して「大政奉還」を宣言したのではなかったことが明らかになっている。

  当日「大政奉還」を諮問するために、二条城へ急きょ集められたのは、在京の約40藩の重臣たち50名ほどであった。

 老中の板倉勝静が、二の丸の大広間に出座して、重臣たちに「それぞれ書付3通を渡すので、考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞きあそばされる」と説明した。

 そのうちの1通は「大政奉還」の上奏分の草案で「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し」などの意向が記されていた。

 「大政奉還」ということが、あまりにも大きく唐突であったので、各重臣たちは、さぞかし驚いたことであろうが、それぞれの国元の藩主に伝えるしかなかった。

 しかしあらかじめ、この「大政奉還」を想定していた薩摩藩の家老・小松帯刀や土佐藩の参政・後藤象二郎など6人が大広間に残って、将軍・徳川慶喜と面会して、「朝廷に政権を『大政奉還』すべき」と、それぞれの意見を述べたのであった。

 徳川慶喜が遺した『昔夢会筆記』によると、「予が政権返上の意を決したのは、早くからのことであったが、かといって、どのように王政復古の実を挙げるべきかについてには、良い考えは思い浮かばなかった 。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を挙げる事ができると考え、これに勇気と自信を得て大政返上に踏み切ったのだ」という趣旨のことが書かれている。

 「王政復古の実を挙げる事ができる」と言うのは「上院に公家、諸大名,下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を上げることができるする」と、慶喜が理解したからであろう。

 そもそも「大政奉還」は、1867年1月に長崎の清風亭で、土佐の参政・後藤象二郎と坂本龍馬が会談したことが、きっかけで動き出したのである。

 藩主の 山内容堂が、参政の後藤象二郎の「大政奉還論」を受け入れて、土佐藩の藩論としたのは、「薩長による武力討幕を回避するためには、これ以外の秘策はない」と判断したからであろう。

 10月3日に、山内容堂が、慶喜に政権を朝廷に返還する建白書を提出したことが「大政奉還」に結びついたのである。

 この慶喜公の決断を誰よりも心待ちにしていたのが、もとの「船中八策」構想を持った坂本龍馬であった。「これで戦争は起こらぬ。将軍の心はいかばかりかと察するに余りある。よく決断成された。私は 誓って、この将軍のために一命をささげん」と感激した。

 しかし その龍馬は、約一月後の11月15日に近江屋で暗殺されてしまうのである。

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  じつは、この「大政奉還」の裏では秘かに薩長による討幕計画が進められていたのである。

 10月5日「賊臣慶喜をてん戮せよ」と、過激な「倒幕の密勅」の綸旨が出された。14日には朝廷より薩摩と長州に「倒幕の密勅」が下された。

 しかし同日に慶喜から朝廷に「従来の旧習を改め、政権を朝廷に奉帰して、広く天下の公儀を尽くしてご聖断を仰ぎ、万民一致して興国を興隆し、外国と並び立つこと」という「大政奉還」の上表文が提出されて、朝廷が、これを受理したので、間一髪、没となったのである。

 「『大政奉還』という、こんな妙案があったんだ。それを編み出した龍馬も偉いし、それを大英断でやってのけた慶喜も偉いんじゃないかな。もっと『大政奉還 』を評価してもよいのではないか」と、著者などは思うのである。

 日本の歴史でも「大政奉還」は、忘れてはならない大切な日である。そしてその「大政奉還」の精神も。150周年の今年は、なぜか嵐の総選挙の真っただ中であった。完                              

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