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我が故郷、瀬戸大橋と塩飽諸島の魅力

 「塩飽」と書いて「しわく」と読む。普通の人は、なかなか読めないだろう。瀬戸内海に架かっている瀬戸大橋の橋脚になっている大小28からなる島々であるといえば分かってもらえるであろう。なぜこんな「塩飽」(しわく)という名前が付いたのかは、いろいろな説があるが、「瀬戸内海の潮流が島々にぶつかって複雑に潮湧く」その風情から名が付けられたという説が有力である。

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             瀬戸大橋がかかる塩飽諸島

 なかでも本島(ほんじま)は「塩飽水軍」の本拠地である。瀬戸内海の海賊とも呼ばれた時代もあったが、それも秀吉による海の刀狩りである「海賊行為禁止令」によって幕を閉じている。戦国時代に活躍した他の村上水軍や九鬼水軍が陸に追い上げられたのに対して「塩飽水軍」だけが水軍として徳川時代を生き残り続けたのである。


 それというのも「塩飽水軍」が関ヶ原の戦いにおいて東軍に味方したので、その水軍の功労に対して恩賞として家康から1250石の朱印状を与えられたからである。


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           塩飽水軍の本拠地である本島

 本島には「塩飽勤番所」(しわくきんばんしょ)と言われる徳川時代に全国でもただ一つしかない、島民による自治を許された政庁があった。陸の「大名」に対して、海の「人名」(にんみょう)と呼ばれた650人の塩飽衆から選ばれた4人の「年寄」たちが交代で全島の自治を司っていたのである。

 幕府の御用船方として一手に瀬戸内海の海上輸送を引き受けて塩飽全島が繁栄したのであった。そこには誇り高き「塩飽水軍」の心意気があった時代でもあった。しかし江戸中期になると、廻船の運行権を大阪の廻船問屋に奪われると、それまでの船大工の技術を生かして「塩飽大工」と呼ばれる宮大工や家大工に転身して活躍している。


 特筆すべきは幕末の1860年に日本人によって初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の渡米に乗船した水夫50人のうち、なんと35人が塩飽諸島出身者であったことだ。この年は20年に1度と言われる太平洋の悪天候をしのいで37日間もかけてサンフランシスコに到着したそうである。水夫3人が死亡して現地に葬られたということであるから、今では考えられないくらいの歴史的難航海であったらしい。
         咸臨丸の乗組員だった塩飽水夫の顕彰碑

 また、その2年後に幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」の建造に合わせて、操船技術を学ぶ留学生として送り込んだ16名の中に、塩飽出身の古川庄八と山下岩吉の2人がいた。この古川庄八こそ私の母方の先祖に当たる人である。


 その古川庄八を訊ねて私のルーツ探しの旅が始まった。かねてより計画していた塩飽本島(しわくほんじま)へ、思い立って2016年の正月明けの5日に児島観光港から遊覧船で渡った。約20分で本島港へ到着した。

 塩飽本島は周囲16キロの島であるが、やはり現地に行って初めて分かるものが多いということだ。いろいろと思わぬ収穫があった。まず先祖である古川庄八が実在したことが確かめられたことだ。その簡略された経歴とともにオランダ留学の頃の若き写真も本島の丸亀支所に残っていた。武士として帯刀を許されて、じつに凛々しい姿で椅子に座って、こちらを見ている写真である。

            オランダ留学時の古川庄八

 5年間の留学を終え完成した「開陽丸」で帰国した古川庄八は、同じオランダに留学した榎本武揚とともに幕府最後の運命を共にして、軍艦「開陽丸」による徳川慶喜の大阪からの脱出や函館沖での海戦にも奮戦していたのである。


 そこで敗残の幕府軍として命を終えるところを榎本武揚とともに特別に赦免されたのである。オランダのライデン大学に留学して造船技術や操船技術を習得していたことが幸いしたのかもしれない。古川庄八は明治新政府に仕えて海軍技師として日本の海軍創設に尽力して、その生涯を終えているのである。


 しかし本島に来て古川庄八は、この本島の出身ではなかったことが判明した。今は坂出市となっている瀬居島西浦(瀬居町)の出身であったと言うことだ。本来ならば古川庄八は、この塩飽諸島で生きて生涯を終えるはずであったが、天は、その運命を別の舞台へと用意していったのである。なぜか私は、その幕末・明治維新の激動の時代を精一杯生き抜いていった一人の男のロマンを感じざるを得ないのである。


 さらに瀬居島西浦(瀬居町)古川庄八の生家を訪ねて、あまり世に知られていない事実を発見をしたのであった。それは庄八には実子がなく親戚である塩飽広島の阪次郎を養子としたのである。その古川阪次郎は、父親から「海の生活は親父一代でよい」と言われて、陸に上がって鉄道技師として活躍し、当時日本一長いと言われた4656メートルの笹子トンネルの難工事の監督に当たって、7年間の苦闘の末に全線開通させたのである。


 また古川阪次郎は、現在の新幹線と同じレール幅の「広軌鉄道」を提唱するなど数々の功績を上げて、今日の日本の鉄道の基礎をつくって国鉄副総裁にまで務めた人物であったことが判明したからである。何と塩飽諸島出身の古川庄八親子は、二代にわたって海と陸の両面から国家に貢献していたのであった。


 しかし塩飽全島は、幕府軍側に付いたことから明治新政府において重用されず時代に見放されてしまったようだ。私が母親や祖父からも古川庄八のことをついぞ聞くことがなかったのは、首都圏で栄達した古川庄八一族と塩飽に残った古川支族の運命の違いからくるものであろう。私の母方の祖父は船大工のままであった。この差は何とも言えない。


 昭和の最後の年である63年に児島から坂出まで道路と鉄道の二重構造つくりの瀬戸大橋が完成した。1兆1500億円の予算と10年の歳月をかけた国家の大事業だった。その瀬戸大橋の中継地点として与島にループして降りられるようになったので、塩飽諸島の中でも与島だけは、わずかながら繁栄している。それに比べて本島の人口は、わずか500人足らずにまで寂れてしまった。


 時代の栄枯衰勢と言ってしまえば、それまでであるが、天気の良い日に鷲羽山に登れば眼下に、新しい時代の象徴として本州と四国に架かった瀬戸大橋の雄姿と、かつてのままの塩飽諸島、そのコントラストが何とも言えない瀬戸内海の情緒を醸し出しているのである。


 車やマリンライナーで瀬戸大橋を通行する人々よ、もし心あるならば、その橋脚下の瀬戸内海に点在する塩飽の島々には、日本海軍の創設や日本の鉄道の建設に関わった「塩飽水軍」と言われる海の男たちが歴史上に存在していたことを、わずかながらでも忘れないでほしいのである。


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            塩飽諸島と瀬戸大橋

 これまでスケッチデッサンしてきた塩飽水軍の残像のように、歴史とは、かくにまで残酷に人や地域を置いてきぼりにして進んでいくものである。そしてまた、どこかの地域で新たなスポットを照らし出していくのである。きっと歴史とはそういうものであろう。


 しかし私は今でも誇りに思うことがある。「我は海賊、否、塩飽水軍の末裔なり。塩飽の歴史的偉業忘れじ」と。


 もっと詳しくは「瀬戸内旅情」で。

すでにブログ90以上アマゾン、アップル、楽天コボの、電子書籍30冊発刊されています。


 ブログの、これまでにない「安田一悟の異次元歴史ミステリー」は、「歴史ミステリー部門」で、常に上位にランクされてます。読者の皆さんありがとうございます。もし塩飽の人がいたら読んでほしいですね。
  
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