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日本四大ミステリー「写楽とは、誰だったのか?」

 「浮世絵」とは、江戸時代初期に、世の風俗(浮き世)を描いたので、そう呼ばれるようになった。

 その「浮世絵」の3大ジャンルが「役者絵」、「美人画」、「風景画」であった。

  もともと美術というよりは、江戸時代の庶民の娯楽として人気があり、多くの浮世絵師がいた。

 その江戸時代の数多くの浮世絵師の中でも、ひときわ異彩を放っているのが、「写楽」である。

  わずか10か月の間に「役者絵」など145余の作品を版行した後に、忽然として画業を絶って姿を消した謎の浮世絵師だからである。

            Toshusai_Sharaku-_Otani_Oniji,_1794[1]

 この「『写楽』が、一体誰なのか?」その出自が、長らく謎であった。

 「『写楽』は、能役者であったのではないか?」という風聞が立ったが、「能役者に、これほどの見事な絵を描ける才能があるとは思えない」ということから、「『写楽』とは、他の有名な絵師が変名して書いたものではないか?」と考えられた。

 筆者は、否、能役者であるからこそ、これだけリアルな役者絵が描けるのだと思うのであるが…

 なぜならば能役者も、その役に成り切るためには、どのように内面を打ち出せるかである。

 それを絵画に表現できる才能が、「写楽」にはあったからだと思うのである。

 しかし「写楽」とは、また洒落たペンネームであるが、「東・洲・斎」と姓を称したのは、「写楽」が住んでいた「八丁堀」の地が、江戸の東の州だったからであろう。

 某書物に「写楽、俗称 斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州候の能役者也」と、簡潔に記述されているのが発見されたことから、「写楽」は、やはり実在していた人物であったことが判明したのである。

  確かに「八丁堀」には、阿波藩の江戸屋敷があって、その中屋敷には藩のお抱えの能役者たちが居住していた。斎藤十郎兵衛も、その一人であった。版元の蔦屋重三郎の店も、また芝居小屋も「八丁堀」の近辺にあった。

 この「写楽」の「東・洲・斎」の姓の中に「斎・藤」が隠されているので、さらに「写楽」の実在が裏付けられたのである。

 「写楽」の役者絵は、大胆なデフォルメによって、目力のある表情や大きな鼻やキリリとしまった口元のなど役者の内面が生々しく描き出されている。sharaku_toshusai2[1]

  描かれた側の役者からは「そんなにアップで描くな」と、苦情が続出したために、生前「写楽」の「大首絵」の売れ行きは、あまりよくなかったようである。

 そのために「写楽は、作品を描くのを止めてしまったのではないか?」と言われているぐらいである。

 しかし「写楽」の役者絵は、表情やポーズが、それまでになかったダイナミックに描かれていたことから、後世ドイツの美術研究家であるユリウス・クルトが「写楽」の役者絵を評価して、レンブラントやベラスケスとともに世界三大肖像画家であると称賛した。

 もっとも「写楽」の肖像画は、特徴的な写実画としてであろうが…、

  しかしこのことがきっかけで、日本でも大正時代から「写楽」が、見直され始めたのであった。

 このように日本では、それほど認められなくても、海外の有名美術研究家によって認められるケースはある。

 ヨーロッパでゴッホなどの印象派の画家が「浮世絵」を見て、衝撃を受けたという話があるくらいだ。  sharaku[1]

 またドイツの建築家ブルーノ・タウトによる桂離宮の建築美の再発見やアメリカの美術研究家フェノロサも欧米にないシンプルな日本の美術を高く評価している。

 現代では「写楽」を知らない日本人は、あまりいないだろう。

 しかしその名前も、存在も、また作品も、浮世絵師としての短い活躍期間も、あまりにもミステリーすぎるのである。

 「写楽とは、誰だったのか?」は、なぜか「日本史の四大ミステリー」の一つに加えられているのである。

 版画家の池田万寿夫が、「写楽」を評価して、その存在の謎を推理し、篠田正浩監督が映画化した。

 「『浮世』を生きることは、『写楽斎』(シャラクセイ)ものである」と。

  そういう「『写楽』のような、短い輝きを放ったミステリーな生き方や作品の遺し方も、人生にはある」ことを教えてくれているのである。続く

 


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