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幕末最大のミステリー「龍馬暗殺」の犯人と、その指令者はだれか?③「渡辺篤の証言」から

この「龍馬と中岡の暗殺」から48年後の1915年(大正4年)に、「渡辺篤(もと一郎)という剣術道場を開いていた老人が、臨終間近な時に、弟の安平や弟子の飯田常之助に『坂本龍馬を暗殺したのは自分である』と告白して死んだ」と「大坂朝日新聞」によって報道された。     20170601233758399[1] 

その渡辺篤の供述によると、「龍馬と中岡を暗殺したのは、佐々木只三郎と本人(渡辺篤)と今井信郎と世良敏郎との4人であり、その他に2人見張りがいた」という。(今井証言と少し食い違うところがある)

また龍馬を暗殺した理由は「潜(ひそか)に徳川将軍をくつがえさんと謀り、其連累四方に多々ある故に…見廻組頭取佐々木只三郎の命により、自分の組(渡辺は見廻組肝煎だった)の者、今井信郎以下3名と申し合わせ」と証言した秘録を遺している。

この渡辺篤が供述した時期は、日露戦争が終わった約10年後であったので、渡辺篤の「龍馬暗殺」の話は売名行為に受け取られて、ほとんど顧みられなかった。

なぜならばロシアのバルチック艦隊が日本に襲来してくるのを、明治天皇の妃であった昭憲皇太后の夢枕に見知らぬ白装束の武士が現れて、坂本龍馬と名乗った上で、「ロシアとの戦いに入る暁には、私の魂は、我が国の軍艦に宿り、忠勇義烈なる軍人たちを保護する覚悟でございます」と告げたというのである。

その夢のことで、元土佐藩士で宮内大臣だった田中光顕が、坂本龍馬の写真を昭憲皇太后に見せると「夢枕に立ったのは、この人物に間違いないです」とおっしゃられたそうである。

この話が「皇后の瑞夢」として「時事新報」などの新聞各紙に報道されて、にわかに龍馬が時の人になっていたからであった。 

しかし渡辺篤(もと一郎)は、「龍馬暗殺」に関してリアルな手記を残している。

現代訳すると「与頭の佐々木只三郎も一緒に仕事をした。刀の鞘を忘れて残したのは世良敏郎という者で、学問は少々できても武芸には秀でておらず、刀の鞘を残して帰るという失態を犯した。普段あまり剣術を学んでいないために、呼吸も切れて歩くこともできない様子なので、私が世良の腕を肩にかけて、鞘のない刀を、私の袴の中に入れて隠し、世良を保護して帰った。河原町四条を出て、四条を千本通りまで、千本を下立売、下立売を智恵光院北に入り、西側の寺院(松林寺)に帰った。宵の口の四条通りは大変にぎわっていて、世良に肩を貸して『よいじゃないか、よいじゃないか』と大声を上げて通行したために抜き身の刀を持っていることを通行人に気づかれずに都合がよかった。松林寺に与頭の佐々木さんが下宿されているので、道を変えながら寺に集合して、仕事の成功に祝杯を挙げて祝い、夜明けにゆっくりと帰宅した。秘密事項なので父以外には誰も話してはいない。坂本龍馬を暗殺した翌日に、新選組の近藤勇が佐々木さんと出会うと『昨日の夜は、お手柄でした』と(ニヤニヤ)笑っていた。『新選組の浪士が、龍馬を斬った』という事実とは違ううわさが(すでに京の町に)流れていたので、(我々京都見廻組がやったことを)言葉にできずに悔しい思いをした」と記されている。

龍馬暗殺団には「絶対に口外してはならない」という厳しいかん口令が敷かれていたのであろう。

現場に刀の鞘が残されていたことと、後に「世良敏郎」が、「京都見廻組」に在籍していたことは、桑名藩士の小林甚七が、世良吉五郎の養子を願い出る幕府宛ての書類があり、実在の人物であったことが確認されたので、「渡辺篤の証言には、一定の信憑性がある」とされた。

この「龍馬暗殺」から、わずか約2か月後に「佐々木只三郎」と「桂隼之助」は、鳥羽伏見の戦いで「京都見廻組」として幕府の要人の警護に当たっていたが、薩摩軍との戦闘中にミニエー銃に被弾して両者とも戦死しているのである。

もっとも「佐々木只三郎」のほうは、腰に被弾した鉛の弾丸が鎖骨に留まる重傷を負いながらも和歌山県の紀三井寺まで逃げ延びたが、旅宿で命尽きて亡くなっている。

「佐々木只三郎」は享年36歳、「桂隼之助」は享年28歳であった。  

 ところで鳥羽伏見の戦いで亡くなったとされる「渡辺吉太郎」は、「渡辺篤」とは別人物であるとされているが、同一人物だった可能性が高い。

 なぜならば1897年に今井信郎が、甲斐新聞の結城記者の取材に対して「龍馬暗殺に加わったメンバーの中の一人は、まだ存命中であり、その者が死ぬまで名は明かすことはできない」と供述しているからである。

 この今井信郎の証言によって「名は明かすことはできない」とした人物とは「渡辺篤」だったことが推測できるのである。

 今井は「龍馬暗殺に加わっていた渡辺吉太郎が、渡辺篤と変名して、まだ存命していることを知っていたのではなかろうか?」

 渡辺吉太郎は、鳥羽伏見の戦いで、26歳で戦死したことになっていて、大阪市天王寺の心眼寺には、桂早之介の墓と並んで「渡辺吉太郎」(渡辺吉三郎と名前を変えている)の墓があることもミステリーである。

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あるいは「龍馬暗殺」が迷宮入りのように解けなかったのは、このことに関係しているかもしれない。続く

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