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古代史最大のミステリー④、奈良県桜井市で発掘されている纏向遺跡(まきむく)は、「邪馬台国」ではない

  

 「邪馬台国は、畿内にあったのか?」を検討してみたい。

   「纏向遺跡」がある大和東南部の三輪山山麓一帯は、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇が住まわれた宮都である。

  第10代崇神天皇は、人心を改めるために、それまで皇室と深い関係にあった葛城氏の地から大物主神(ニギハヤヒ命)の故地である三輪山麓の「磯城瑞垣宮」(シキノミズカキ宮)に遷都した。

 これが「纏向遺跡」のある「三輪王朝」と呼ばれるものである。

 しかし、遷都した三輪の地に疫病が流行して多勢の人が死に絶えたので、疫病の原因を調べるために巫女のヤマトトトモモソ姫に、霊降ろしをさせたところ、三輪山の大物主神が出てきて、「わが子孫である大田田根子を探し出して我を祀れ、そうすれば疫病が治まるだろう」と告げた。

 その霊告の通りにしたら、ようやく疫病が治まったという。この疫病が退散したことで、崇神天皇は、大物主神を祀る「大神神社」(おおみわ)、倭国魂神を祀る「大和神社」、物部氏の祖神を祀る「石上神宮」(いそのかみ)の大和3社を創建したところ、畿内は五穀豊穣となった。このように神を崇めた天皇と言う意味で、後世に「崇神天皇」(スジン)と言うおくり名が、つけられたのである。

 畿内が平穏に治まると、崇神天皇は、「四道将軍」として大彦命を北陸へ、タケヌナカワワケ命を東海へ、吉備津彦命を西国へ、丹波道主命を丹波の各地に使わして、大和朝廷に従わないものを討伐することにした。

 ところが北陸へ先発した大彦命が、途中で不吉な歌を聴いて引き返して報告した。

 その不吉なことをヤマトトトモモソ姫が、霊占いしたところ、武埴安彦が、隙を狙って謀反を起こそうとしていたことが発覚したので、先手を打って反乱を鎮めた。

 その後、「四道将軍」が各地に出発して、それぞれの地を平定したという。

 中でも西国を平定した吉備津彦の名は、備前吉備津彦神社、備中吉備津彦神社、備後一宮吉備津彦神社の祭神として祀られ、「桃太郎伝説」として現在に残っている。

 このように崇神天皇が、大和朝廷の支配領域を広げて、税を課して国家体制を整えたところから「はつくにしらすすめらみこと」と称えられようになったのである。 

    250px-Emperor_Sujin[1] 第10代崇神天皇 故に「纏向遺跡」は、「邪馬台国の遺跡」ではなく、第10代崇神天皇と第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の3代が治められた宮都である。

 景行天皇の皇子であるヤマトタケル命が、熊襲退治や東征で活躍したのも、この頃である。したがって崇神天皇陵と垂仁天皇陵と景行天皇陵も、この纏向の地に眠っている。

 そして「箸墓」は、女陰を箸で突いて亡くなった崇神天皇の叔母である「ヤマトトトモモソ姫」の墓であって、「卑弥呼の墓」ではない。何故ならば『魏志倭人伝』には、「卑弥呼が女陰を箸で突いて亡くなった」と言う記述などはないからである。

「箸墓」が、これほど大きいのは、ヤマトトトモモソ姫の功績と、第10代崇神天皇による「大和朝廷」の権力が確立したからであろう。

 なお「神武天皇・崇神天皇同一説」があるが、初代神武天皇が、大和建国を成し遂げて天皇に即位されたのが、270年頃(筆者の推定では)であり、第10代崇神天皇が在世していたのは、約400年頃であるので、それぞれ別の時代の、違う個性の天皇であったことが分かるのである。続く

 

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