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古代史最大のミステリー②、「なぜ大和朝廷において『邪馬台国隠し』が行われたのか?」

 前回「邪馬台国は、何処にあったのか?」を、『魏志倭人伝』から読み解いたら、思いのほか多くの反響があったので、続編を書いてみることにした。

 古代史を研究していくと、大きな疑問にぶつかる。

 その一つは、「なぜ『邪馬台国』は、中国の『魏志倭人伝』に記述されて、日本の『記紀』には記述されていないのか?」という疑問である。

 しかし「『記紀』には、全く記述されていないのか?」と言うと、わずかに『日本書紀』の神功皇后の章に、「魏書によれば、女王が、魏に使いを送った」と記述されていて、あたかも神功皇后が、卑弥呼であるようなことを匂わせているのである。

 だが年代的にも無理であり、これは明らかに『日本書紀』に書かれたトリックだと言ってよい。

この記述によって分かることは、大和朝廷は、『魏志倭人伝』に記述されている「女王・卑弥呼や邪馬台国が、存在したことを知らなかったわけではない」ということである。

ということは大和朝廷は、「意図的に『邪馬台国隠し』を行った」ということでもある。

 「では、なぜ『邪馬台国隠し』が、行われたのか?」

 それは「大和朝廷が、『邪馬台国隠し』をしなければならない理由があった」からである。

 その理由というのは、『魏志倭人伝』に記述されている「女王・卑弥呼が、魏に使いをやって朝貢し、魏の明帝から『親魏倭王』の金印を授かって、魏朝に臣従した」ことである。

また『魏志倭人伝』の中で、「日本国を、『倭国』と言ったり、『卑弥呼』や『邪馬台国』や『奴国』や『狗奴国』などのように、あまりにも国を蔑称する漢字が多用されていたからであろう」

 このように時の大和朝廷は、『魏志倭人伝』に書かれている日本国の名誉を毀損するような内容を快く思っていなかったので、「意図的に『記紀』から、『卑弥呼』や『邪馬台国』を削除したのではないだろうか?」と、推測されるのである。

 さらに述べるならば、日本が、663年の白村江の海戦で、唐・新羅の連合軍に大敗した後遺症もあったことであろう。

 ともかく大和朝廷による『記紀』の編纂において、「邪馬台国隠し」が行われたために、古代史が、一層、混迷してしまったことは間違いない。

 さて「邪馬台国」は、卑弥呼の死後、男王を立てたが、まとまらず戦乱が起きたので、卑弥呼の宗女である壱与(いよ)を女王としたことで戦乱は収まった。

 その女王・壱与が、266年に晋に朝貢したことが、『晋書』に記述されているが、その後、「邪馬台国」の消息が、忽然と古代史から途絶えてしまうのである。

 次に「倭国」が、中国の『宋書』「倭国伝」に登場してくるのは、413年、宋に朝貢してきた「倭の五王」からの時代である。

 それまでの150年間は、「古代史の空白時代」とされて謎のままである。

 この「『150年間の空白のミステリー』の間の古代史に、いったい何が起きていたのであろうか?」

じつは、とんでもない古代史の大事件が起きていたのである。以下は筆者の推理である。

 女王・壱与の「邪馬台国」が、対岸の「出雲国」との戦いに敗れて、その残存勢力が、南九州にあった「投馬国」(現在の宮崎県西都市)と合流したのである。

 「投馬国」は、女王・天照大神を祭神とする「高千穂国」を正統に継承していた国であった。

じつは「邪馬台国」も、女王・卑弥呼が、天照大神を祀っていた宗教的兄弟国であったのである。

この「投馬国」に、天孫のニニギ命の、ひ孫であるカムヤマトイワレ彦命(神武天皇)が現れて、九州を平定した。

その後、3世紀の末にカムヤマトイワレ彦命が、東征を決意して、宮崎の美美津から出港して、宇佐を通り、わざわざ北九州市に岡田宮を築いて、其処にしばらくとどまっている。

これは「邪馬台国」の残存勢力と合流するためであろう。この地で船を建造して、再び出港して安芸にタケリ宮を築き、岡山にも高島宮を築いてとどまっている。

そこで「出雲国」に国譲りをさせた後に、数々の試練を受けながらも、熊野灘から上陸して、畿内に侵入して、ナガスネヒコを打ち破り、饒速日命(ニギハヤヒ)を恭順させたのである。

そして「ヤマト王権」を樹立して、カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)が、初代天皇として即位されたのである。

   tousei[1]

 これらのことは、『記紀』に記述されている通りであるが、「邪馬台国」が東遷したのが、266年以降と考えられるので、「神武東征」と「邪馬台国東遷」が、年代の違いもあって、これまで一致していなかった。

しかし日本国が、「大和国」と呼ばれるのは、日本語読みでは、「やまと国」と呼ばれていた「邪馬台国」を継承していたからであろう。

その意味では「邪馬台国」は、現在の天皇家の祖先にも当たるわけである。

これは古代史をひっくり返すような仮説でもあろうが、古代の天皇たちの在位と寿命が、百何十歳と、あまりにも長いことを考えると、これで合理的な解釈ができるのである。完

 

 

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