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30年目を迎えた「天安門事件」とは、いったい何だったのか?③

 2017年11月に、衝撃的な公文書が新たに公開された。イギリスの英国立公文書館(TNC)が、数千ページの外交機密文書を解禁したのだ。

 それによると、30年前の1989年6月4日未明に中国の天安門広場で起きた「『天安門事件』の死者が、少なくとも1万人にのぼる」とするものである。

  当時の駐中国アラン・ドナルド、イギリス大使が本国への電報で、「最低に見積もっても、死者は、1万人に達する」と報告していたのであった。

 2014年に、機密解除されたアメリカの文書にも、死者数が1万人を割り出しており、「これは信憑性があるのではないか」とされていた。

 従来は「死者は約2000人ぐらいではないか」と伝えられていたのであったが、それを大きく上回る数である。

 しかし本当の死者数は、今となっては闇の中で判明できないが、凄惨な大量虐殺事件であったことは世界が周知しており、中国当局が民主化運動で武力弾圧した「天安門事件」を隠したがるのも当然のことである。

 また別の文書によれば、すでに「5月19日には最高指導者であった鄧小平によって、北京に厳戒令が布告されていて、武力鎮圧にあたったのが、瀋陽軍区部隊、山西省の『人民解放軍第27軍』であった」という。

 「作戦は4段階あって、1段階から3段階は、広場にいた市民と学生を分離させる。第4段階目は、学生参加者たちを全員射殺する」というものだった。

 学生たちは、「1時間以内に天安門広場を退去するよう」にと、通告を受けたが、それを待たずにして装甲車内の第27軍兵士による容赦のない銃射撃が始まったという。

 それが1万人を超す凄惨な大量虐殺事件となったのである。

 この「天安門事件」の後には、西側諸国が「自由と民主主義」のもとにグローバルに広がる衛星中継を用いて、その様子を世界に広く伝えたことで、抗議として中国への経済援助の停止や取引制限など制裁が行われた。

 ところが、その後、日本の海部内閣が、一早くОDAなど経済制裁を解除したために、米欧諸国が制裁を解除した。中国の「改革・開放」政策が功を奏して、経済発展を遂げて、「天安門事件」への関心が急速に薄れてしまったのである。

 王丹氏は、獄中にて、そのことを知って泣いたという。

 現在、中国では「天安門事件」とネットで検索すると、即遮断されるという。

 日本ではネットで検索できるが、「天安門事件」の画像は、あまりにも生々しく凄惨なものであるので、長くは正視できない。

 しかしこの「天安門事件」の多大な犠牲の上に今日の中国の経済繁栄があることを忘れてはならない。

 2017年、7月13日に、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏が、肝臓ガンで亡くなった。享年61歳であった。その死を痛む声は中華圏のみならず、全世界に広がった。

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 劉暁波氏は、2010年に「中国での基本的人権を求める長期にわたる非暴力の闘い」を受賞理由にノーベル平和賞を獄中で受賞したことから、その名が世界に知られていたからである。

 劉暁波氏は、10代の頃に文化大革命後の「下放政策」により家族とともに辺境の農村で過ごした。北京師範大学で文学修士号を取得し、欧米の客員研究員として迎えられた。

 89年4月、北京の天安門広場付近での学生たちの民主化運動の高まりを受けて、急きょニューヨークから帰国した。

 ハンガーストライキにも参加したが、前述したように6月に中国人民解放軍の容赦のない戦車と装甲車による武力鎮圧によって民主化運動は葬り去られてしまったのである。

 しかし劉氏の活動は、これで終わらなかった。2008年に「共産党が政治、経済、社会の資源を独占している」と主張して、憲法改正や司法の独立、公職選挙の実施など中国の大幅な民主化を求めた「零八憲章」を起草した。

 これは中共一党体制を批判し、民主化を求める内容だったので、即時逮捕されて、2009年に「国家政権転覆扇動罪」で、11年の有罪判決を受けた。

 2010年に劉暁波氏は、「ノーベル平和賞」を獄中で受賞した。「この受賞は、天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と、劉氏は涙ながら語った。

 2010年12月10日、ノルウェーのオスロで行われた劉氏の空席のままのノーベル平和賞の授賞式で、2009年の判決を前に記した文章が読み上げられた。

「私には敵はおらず、憎しみの気持ちもない」

 「憎しみは人類の知恵と良心を腐らせ、敵対意識は民族の精神を傷つけ、生きるか死ぬかの残酷な闘争をあおり、社会の寛容性と人間性を破壊し、一つの国家が自由と民主主義へと向かう道のりを阻むものだ。私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向かい合い、愛で憎しみを溶かしてみせる。私は望んでいる。私が中国で綿々続いてきた『文字の獄』の最期の犠牲者となることを。そして今後、言論を理由に罪に問われる人が二度と現れないことを」と。

 この劉暁波氏の言論弾圧にも屈することのない「自由と民主化」の信念は世界から称賛された。

 また劉氏は、妻・劉霞にもメッセージを送った。「もし過去20年間で最も幸せな経験を語るとするならば、妻の劉霞の無私の愛を得たことだ。彼女は今日この裁判を傍聴できないが、しかしそれでも伝えたい。私の愛する人よ、君の私への愛が、いつまでも変わらないことを確信している」

 「一方で、君への私の愛は痛みと苦しさでいっぱいで、時として、そのあまりの重さによろめいてしまう。私は荒れ野の石ころで、暴風に打たれるままだ。冷たく誰も触ろうとしない。しかし私の愛は固く、鋭く、いかなる障害をも貫くことができる。たとえ粉々に打ち砕かれても、私は灰となって君を抱きしめることができる。愛する人よ、君の愛があるからこそ、私は来るべき審判に平然と向き合って、自分の選択を悔やまず楽観して、明日を待つことができるのだ」と。

 最期の言葉も、妻にかけられた。「あなたは、しっかり生きなさい」、「幸せに暮らして下さい」だったと伝えられている。

 劉暁波氏を知る友人は「普段は滑舌の悪い男なのに、ひとたびマイクを握ると、違う男になるんだ。リズミカルに人の心を打つ言葉が次から次へと出てくる。あれほど引き付ける人は、今の中国にはいないだろう。まさに革命のために生まれて来た天才だった」と語っている。

 そう、彼は大川隆法総裁の「霊言」によると「日本の幕末の志士で安政の大獄で斬首された橋本左内の生まれ変わりである」と言うのである。 

 あくまでも非暴力を貫いた、劉暁波氏の生き方は、「中国のマンデラ」とも言われて、「すべてを許す境地」にたどり着き、人種間の融和を目指すに至った精神は、中国で、そして世界で、多くの人の心を感動させた。

 生前の劉暁波氏は、中国政府が最も恐れた人物である。「巨大な中国政府は、一人の劉暁波氏の何を恐れ、そして劉氏が病死するまで拘束し続けたのであろうか?」謎といえば、謎である。

 その死後も、さらに中国政府の脅威となって劉暁波氏の志が、世界に広がっていくのは間違いないことだろう。

 中国国内にも自由と民主化を求めて、第2、第3の劉暁波が出てくるであろう。そしていつかは… 完

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