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「たかが野球、されど野球」阿波の攻めダルマ① 

 今年の春のセンバツ高校野球は、平成最後のセンバツとなる。すでにベスト16がそろったところである。

3月に日米通算4257安打を打ったマリナーズのイチローが引退したように、これまで高校野球は数々のレジェンドを産んできた。

著者が住んでいる徳島にも有名な高校野球レジェンドがあったことを思い出した。

 ミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄が引退した年である1974年春に、わずか11人の野球部員の、徳島県の片田舎にあった人口一万人足らずの山間の町の池田高校が準優勝して、甲子園に一大旋風を巻き起こしたのである。

当時は、「さわやかイレブン」と言われた。それを率いていたのが、あの伝説の「攻めダルマ」と言われた蔦文也監督である。  

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 「さわやかでも何でもない。わしのシゴキがきついけん、11人しか、ついていけんようになっただけじゃ」と蔦監督は、素気なく言う。

 練習が厳しいから、気が付いてみると、残った部員が11人だけであったと言う、それで甲子園の準優勝まで勝ち残るのも、また凄いことである。

ちょうど長嶋選手が「わが巨人軍は永遠である」という名セリフを残して引退して、急にプロ野球がつまらなくなってしまったので、日本の国民は、高校野球の方の面白さに湧いた。

 池田高校は、1972年夏の大会で、念願の甲子園初出場を果たしたが、山間部にある田舎の高校が、ここまで来るのは大変なことであった。蔦監督が、池田高校の野球部の監督に就任したのは、1952年であったから、実に約20年間の長い挑戦で、甲子園の出場をものにしたのであった。

 池田高校が甲子園初出場までの蔦監督の口癖は、「そんなことやったら、いつまでたっても徳商に勝てんぞ」であった。長い間、母校の徳島商業高校の厚い壁に跳ね返され続けきたからだ。それでも負けても負けても甲子園に挑戦し続けた。

「山間の子供たちに、一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」と言う、「大海」とは、「甲子園の人の波」であろう。この時の蔦監督の言葉は、池田高校の校門横の石碑に刻まれている。

 1979年夏にも池田高校は、簑島高校に惜敗したものの準優勝した。

 1980年代になると、「また、あのオッサンが、甲子園のベンチに立っているぞ」と、言われるくらいに、蔦監督が勝利の校歌斉唱で、野球帽を取ると、白髪が見えるのが特徴的だった。池田高校は、いつのまにか甲子園の常連校となっていた。

 蔦監督が凄かったのは、これまでのバンドなどで塁を進めて加点する高校野球の常識を覆して、それまでのスタイルを変えて、ガンガンに攻めまくるパワー野球にしてしまったことだった。

 すなわち金属バットに変わった高校野球に、少々芯を外しても、筋力さえあれば、打球を飛ばせるように、選手に筋トレを取り入れてパワー・アップさせたのである。

 「わしはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切りのびのび打ったらええんじゃ」と。

 いつしか蔦監督は、「攻めダルマ」と言われ、池田高校の強力打線は「やまびこ打線」と言われるようになった。

 もちろん打線だけでなく、抑えの投手にも力を入れた。それでなければ甲子園では勝てないことは、よく知っていた。

 そして1982年夏に、池田高校は、ついに全国の高校野球の頂点に立ったのである。

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 この時、蔦監督は「甲子園は、いっぺん味をしめると忘れられへん。わしは池田に骨をうずめるつもりじゃ」と、言う言葉の通りに83年春にも優勝して、池田高校は、何と夏春の連覇を達成してしまったのである。続く 

 

 


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