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児玉源太郎と203高地の陥落②

 12月4日の早朝から日本軍は、28センチ榴弾砲を、ロシア軍の203高地に向かって猛射し続けた。

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この28センチ榴弾砲の集中的猛射によって、203高地を死守していたロシア軍を恐怖のどん底に叩き込んだ。さすがに抵抗していたロシア軍の砲火も衰え始めた。

しかし日本軍は、なおも容赦なく28センチ榴弾砲を終日打ち続けて、203高地のロシア軍に大打撃を与えた。

 すでに突撃して203高地の一角を占領していた100人余りの日本人兵士が、援軍なくて死守していた。児玉司令官は「あれを見て、心を動かさない奴は人間ではない」と、兵士を励ました。

 翌5日の9時過ぎより、第14師団が、203高地の西南堡塁に突撃を開始して、ついに10時半頃には陥落させた。その山頂で死守していた100人足らずの日本兵士が、ようやく援軍に救われたのだ。

 しかしロシア軍の反撃は壮絶を極めた。

 さらに第14師団は、東北堡塁にも突撃して、ロシア軍を撤退させ、6日の払暁までには壊走させて、ようやく203高地を完全に制圧することができた。

乃木将軍率いる第3軍が、5か月間も攻めあぐねてきた、あの難攻不落と言われた旅順要塞の203高地は、3日間で陥落したのであった。

    203kouchi[1] 203高地

 児玉司令官は、時を移さずして占領した203高地に観測所を設けて、西南山頂に派遣した着弾観測将校に命じて、28センチ榴弾砲を旅順港に停泊していたロシア太平洋艦隊に砲弾の雨を降らせた。

 その後の3日間にわたる砲撃で、ロシア艦隊は、ほぼ全滅したのであった。

 この旅順要塞の203高地攻略によって、日本海軍が、日本海海戦において、バルチック艦隊を撃滅することに、つながっていったのである。

 この間11月28日から12月6日までの203高地の攻略戦で、日本軍の戦死者は、5052人。負傷者は、11884人にも上った。

 203高地が陥落し、さらに15日にこれまで旅順要塞を死守してきたコンドラチェンコ少将が掘られた坑道によって爆死したことは、ロシア軍に大きな打撃を与えた。

 東鶏冠山北堡塁をはじめ、各地の堡塁が次々と陥落して、翌年の1月2日にロシア軍の旅順要塞の司令官ステッセリ中将が降伏して、約190日間に及んだ旅順攻防戦は終わったのである。

 しかし旅順要塞攻略における日本軍の戦死者は、合計約1万6000人、戦傷者は、約4万4000人という信じがたい数の犠牲者を出してしまった。

 まことに悲惨なとしか言いようのない犠牲者数で、これが113年前に起きた、世にいう「203高地の戦い」であった。

 児玉源太郎は、旅順攻略の任務が終わった4日目に、「俺の用は、これで済んだ」と、言い放って満州軍総司令部へと帰っていった。完

 


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