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日本の運命を担った東郷平八郎と秋山真之①

 山本権兵衛が、西郷従道海軍大臣の承認を得るために予備役編入のリストためにを持ってきた。

 その末尾に、東郷平八郎の名が乗っていたのであるが、2人は赤鉛筆で〇をつけていったが、東郷のところに来ると、山本は、「この男は、もう少し様子を見ましょう」と言った。

西郷従道は、「よかろう、どこかはめておくところはないか?」と尋ねた。山本権兵衛が「横須賀にある浪速へでもつないでおきましょう」と言ったことで、退役するはずの東郷平八郎の首がつながったという。

    image171[1] 東郷平八郎

 その東郷平八郎を、後年「天運が良い」ということで、連合艦隊司令長官に指名したのは、海軍大臣となった山本権兵衛である。

秋山真之は、1890年(明治23年)に海軍兵学校を首席で卒業して海軍に勤務する。

 1897年(明治30年)にアメリカ駐在武官として留学した真之は、世界的海軍戦術家であったマハン提督に師事した。

 マハン大佐から「戦略戦術とは、他人から教わるものでなく、海戦や陸戦を含めた古今の実戦を詳しく調べて、その要領をつかんでオリジナルの戦略戦術を編み出すことである」と、教えられた。

 真之の狂気に近い読書は、ここから始まった。海軍大学校の図書館や海軍文庫に通って片っ端から英文の軍事書を読んでいった。

 そして膨大な軍事書から実戦に役に立つ戦術だけを抽出して、後は捨て去るという学習方法を取った。

      saneyuki-top[1] 秋山真之

 1900年(明治33年)に帰国した後も真之は、日本の古来からの合戦や瀬戸内水軍の戦術なども貪欲に研究して、使えそうなものを身につけていった。

 日露戦争の直接的な原因は、ロシア帝国の南下政策であり、シベリア鉄道の全線開通が、1904年(明治37年)の9月であり、それまでに対ロシア戦をしなければ、武器や資源などに劣る日本軍の勝ち目はないというのが、日露戦争に踏み切った理由であった。

 シベリア鉄道開通の半年前の1904年(明治37年)2月9日に、日露戦争が開戦となって、秋山真之は、連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で、作戦担当の参謀となって、第一艦隊の旗艦三笠に乗船した。

 真之が、村上水軍の兵法書「野島流海賊古法」からヒントを得て、さらに参考としたのが、山屋他人中佐の「半円戦法」だった。これは一列に進んでくる敵艦に対して、右へ半円を描いて展開する戦法である。

真之は、この「半円戦法」を改良して、「東郷ターン」と言われる「丁字戦法」を編み出したのである。

 しかし敵前回頭の「東郷ターン」を用いる場合は、味方の先頭艦が、一列になった敵艦から集中砲火を浴びることになる。それを通り越してしまえば、横一列に展開した味方の艦から、敵の旗艦に砲火を集中できるのが「丁字戦法」である。

 この「東郷ターン」は、ある意味では肉を切らせて骨を切る、薩摩示現流の戦法の海戦応用であった。

しかしその「T字戦法」で、ロシアの旅順艦隊と黄海海戦で戦った時は、見事に逃げられてしまった作戦でもあった。

 当時の海戦では、艦砲の命中率が3パーセントでしかなかった。これを東郷司令長官の指令で、日本連合艦隊は、猛訓練によって6パーセントにまで上げたのである。続く

 

 


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