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昭和の残像シリーズ④60年代安保闘争の岸信介総理と丸山真男

 岸信介氏は、日本の高級官僚で、戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに入っていて、出所後、政治家に転身して9年目で総理大臣に上り詰めた人である。

   左翼マスコミには「昭和の妖怪」と書き立てられていたが、その岸信介総理の時に直面したのが「安保闘争」である。

 「安保闘争」とは、1960年1月に調印し、6月に成立した「新日米安全保障条約」という軍事同盟の延長に反対した運動のことである。

  1960年の衆議院本会議において、「安保反対」派である社会党などが、議事ができないように清瀬一郎衆議院議長を議長室に閉じ込めたのであった。

  清瀬議長が警官500人を国会内に出動させて座り込んでいた社会党の議員や秘書たちを引き抜いて、やっと5月19日に採決した法案である。

 この「60年安保闘争」の最も山場は、国会議事堂が約20万人とも言われる「安保反対」派のデモ隊によって取り囲まれて、そのうち1万人弱の学生が門扉を乗り越えて、国会内に乱入した6月15日であった。

  まさに「60年安保闘争」は革命前夜までいったのである。

 この時、総理官邸も危機一発で、警備にあたっていた警官が「首相、もう私たちでは護りきれません。早く、ここから逃げてください。これは、もう革命ですから、命の保証はできません」と、思わず、そう言ってしまったぐらい切迫したものであった。

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    日米安保を守った岸信介元総理

 これに対して岸総理は「ここから立ち去っても、どこに安全なところがあるだろうか?殺られるならば、ここで殺られる」と覚悟を決めたのである。

 なぜならば岸総理は、「日本にとって、日米安全保障条約を結んでいる方が、共産主義国からの侵略を防衛することができる」という政治的信念を持っていたからである。

 何とかデモ隊の攻防をしのぎきって、深夜12時の時間切れで、日米安保同盟を自動延長に持ち込んだのである。そのあと岸総理は、官邸に残っていた実弟の佐藤栄作とブランデーで乾杯したという。

 「もしあの時に岸首相がデモ隊に屈して、日米安全保障条約を破棄していたならば、日本は、どうなっていたであろうか?」

  おそらく日本の単独の防衛力だけでは、到底、防衛できずに、ソ連軍の侵略を許してしまっていただろう。あるいは左翼革命が起きていたならば、多くの人々が思想犯として捕らわれて、いったいどれぐらいの人数が殺されていたか分からないだろう。

 よく、この「安保闘争」の激浪を、岸総理がしのぎきることができたので、日本を左翼化から守りきることができたのであった。

 自分の政治的使命を果たし終えたと思った岸総理は、すぐさま退陣表明したが、その後、暴漢に襲われて腿を刺されるという難にあってしまった。

 当時「『安保反対』を煽り立てた政治家や丸山真男などのプロの政治学者や左翼マスコミは、どのような言い訳をするのだろうか?」

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      マルクス主義の政治学者 丸山真男

 「60年安保闘争」の理論的リーダーであった丸山真男は、大川隆法総裁の『丸山真男の霊言』で、「君、神っていうのも、やっぱりフィクションなんだよ。人間にとってのフィクションとしての理想像を神と称しているわけである」と、いう言い分で相変わらず「無神論者」でいた。

 また「日本も、世界も『丸山政治学』というものを認めたし、日本では、文系で天才学者と言われたのは私ぐらいしかいないからね」

 「私の言葉で何十万人、何百万人の人が、君、デモ行進したんだ。まあ、いってみれば日本の毛沢東みたいなもんだよ」と、やはり傲慢な学者であった。

 そして「あの権力装置が、あんなことをやらなければ、ちゃんと革命は成就していた。もう一歩、もう一歩だった」と、警察機動隊によってデモ隊が阻まれて革命を逃した悔しさで、一杯であった。

 結局、「反安保闘争」の挫折は、政治学者の丸山真男よりも、朝日新聞などのマスコミよりも、日本の国民の方が、政治的判断が正しかったし、よほど頭がよかったことを証明しているのである。完

 

 

 

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