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明治国家を守った軍人シリーズ⑤陸軍の大山巌B

 翌年、明治天皇が北陸・東海地方巡幸された時、大山も同行を命じられた。天皇は、大山に言った。「私は、西郷に育てられた。今、西郷は賊名を着せられ、さぞ悔しかろうと思う。私も悔しい。西郷亡き後、私は、そなたを西郷の身代わりと思うぞよ」と。

 大山は「もったいないお言葉でございます。全身全霊を陛下に捧げる所存でございます」と答えるのが、やっとだった。しかしこの時の明治天皇のお言葉で、「自分は、兄さぁの代わりになろう」と決意すると、ようやく将来の自分の生き方が見えてきた。

       photo_19[1]大山巌 

 翌年1878年(明治11年)5月に大久保利通が暗殺された。同じ年の11月に大山は、陸軍中将に昇進し、12月には参謀本部次長となった。

 1884年(明治17年)2月、陸軍卿となった大山巌は、川上操六大佐と桂太郎大佐らを伴って、ヨーロッパへ兵制視察に出発し、ドイツにてメッケル少佐を陸軍大学教官として招聘することに成功して帰国した。

 1885年(明治18年)12月、第1次伊藤内閣が発足し、外務大臣に井上馨、海軍大臣に西郷従道、そして陸軍大臣に大山巌が就任した。

 1894年の10月の日清戦争では、大山陸軍大将は、第2軍司令官として遼東半島に上陸し、旅順に向けて前進した。1895年の1月20日、第2軍の主力が山東半島に上陸して威海衛軍港の陸岸を占領する。清国の北洋艦隊が日本の連合艦隊に降伏して、日清戦争は、日本軍側の勝利となった。

 日清戦争後、三国干渉によって遼東半島を返還せざるを得なかった日本の次の国策は、大国ロシア戦を想定したものとなって、陸・海軍の軍備増強がなされた。

 1904年(明治37年)2月8日にロシアに対して日本が宣戦布告した日露戦争においては、大山巌は陸軍大将元帥として、満州軍総司令官に任命された。鴨緑江、金州南山、遼陽とロシア軍を駆逐して、沙河会戦で苦戦していた時、昼寝から起きてきた大山司令官が「さっきから筒音が、しちょりますが、児玉さん、今日も、どっかで戦(ゆっ)さがごわすか?」と、寝ぼけた一言を放ったことで、総司令部に漂っていた重苦しい空気が吹き飛んで、状況把握が的確になされるようになった、というエピソードがある。

 また黒溝台の会戦では、満州軍総司令部が「この厳寒な冬季にロシア軍が大作戦を起こすはずがない」という思い込みでいたところ、猛将グリッペンベルグが、ロシア軍10万人を率いて、手薄であった日本軍の左翼に一大攻勢をかけてきたのである。思ってもいなかったロシア軍の一大攻勢に満州軍総司令部が周章狼狽していた時に、大山総司令官が「ついに黒バト(クロパトキン)が出てきもしたか?」と言ったので、それまで混乱の極みであった総司令部の空気がなごんで、本来の冷静な判断を取り戻すことができた。戦力を投入して秋山好古支隊の機関銃での撃退と立見尚文率いる第8師団の夜襲で何とか黒溝台を占拠することができたのである。

 このような緊迫した戦場においても、バカだか利口だか分からない茫洋たる風格を持つことは、薩摩の伝統的な総大将のスタイルであるらしい。しかし大山は、けして愚鈍なリーダーではなく、参謀の児玉の作戦を全面的に信頼し任せ切った。「児玉さぁ、思い通りに、おやりなされ」と、一度作戦を決めたら一切口出しはしない。その結果に対しては、自分が責任を取るというスタイルを貫き通している。

 最後の奉天の大会戦では、36万7000人という数に勝るロシア軍が、24万人の日本軍よりも、はるかに優勢であった。奉天で、さらなる増援を待つロシア軍に対して、これ以上待っては日本軍側の不利になると考えた大山巌総司令官は、2月20日に奉天決戦の作戦指示をするために、各軍司令官を総司令部に招集した。作戦の大要は「ロシア軍を包囲する形で攻める」ことであった。陣容は東から第2軍、第4軍、第2軍となった。旅順要塞を陥落させて、合流した乃木の第3軍は奉天西側を北上し、ロシア軍の背後に回る役目となった。

 3月1日、この一大決戦に際して大山巌総司令官は、「本作戦は、今戦役の関が原とならん」と将兵たちに訓示して、国家の命運を賭けたとも言える奉天決戦を総力戦で挑んだ。

 激戦9日を経た3月9日に、これまで優勢に立っていたロシア軍が、突如、奉天の陣地から、不可解な退却し始めたのだ。ロシア軍の総司令官クロパトキンは、1、2年は持ちこたえることができると思っていた旅順要塞を陥落させた乃木将軍率いる第3軍が合流してきたことに恐怖感を抱いていた。その乃木の第3軍によってシベリヤ鉄道が爆破されて退路を断たれると、全ロシア軍が窮地に陥ることを恐れて、鉄嶺・ハルピン方面への撤退を指令したのであった。

 この時点で日本軍は、もはや弾薬が尽きて、戦力も弱まっていたので、この全く予期していなかったロシア軍の撤退によって、3月10日に奉天を占拠することができた。第4軍は、なおも追撃してロシア軍の2個師団に打撃を与えたので、鉄嶺も捨てて逃走してしまった。ハルピンに逃れたクロパトキンは、ロシア軍総司令官を罷免された。その事で、ロシア軍が敗北を認めてしまった形になったので、国際的にも、日本軍の勝利が認知されるようになった。このように数々の天運もあってか、大山巌率いる日本軍は、満州のロシア軍に辛勝して、日露戦争の勝利に貢献できたのであった。

 ようやく凱旋帰国した時に、息子から「総司令官として出征中は、どんなことがいちばん大変でしたか?」と聞かれて、「別に大変だったこともなかが、若い者たちに心配させまいと思うて、知っとることも、知らん顔をしなければならなかったことくらいかな」と、平然として答えているが、これは余程の忍耐心と胆力がなければできないことであった。

 晩年、大山は、那須の別邸で農業をして暮らし、死ぬ間際に、意識が朦朧とする中で「兄さぁ」と、何度もうわごとを言うと、夫人の捨松が「やっと西郷さんに会えたのね」と話しかけたという。大山巌は、安心したかのように1916年12月10日、長い軍人生活の眠りについた。享年75歳であった。国葬を持って迎えられた。 完 

               


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