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明治国家を守った軍人シリーズ⑤陸軍元帥大山巌A

  大山巌は、1842年12年10日、鹿児島城下加治屋町に大山彦八の次男として生まれている。西郷従道とは、従兄弟同士であり、ほぼ同じ頃に、同じ町内に生まれたことになる。その顔や風貌が「ガマ」に似ていることから「ガマ坊」というあだ名で、陸軍大将元帥まで上りつめたのであった。

 しかし弥助と言われた若い頃は過激で、1862年に有馬新七らの「寺田屋事件」に参加したが、公武合体側に鎮圧され、弥助は投降して、からくも命は助かったが、薩摩に戻されて謹慎処分となる。不思議なことに従兄弟の西郷信吾も、この「寺田屋事件」に関わっていたが互いに命拾いしているのである。

 「薩英戦争」が始まると、謹慎が解かれて、砲台に配属されたが、イギリス艦隊の圧倒的なアームストロング砲の砲撃力の前に、弥助は、薩摩が攘夷することの無謀さを知り、これからは近代兵器の優劣の差が、戦争の勝敗を分けることを身をもって知った。

  戦後、江戸に出て、江川英龍の塾で黒田清隆らとともに砲術を学んで免許皆伝を得ている。

 鳥羽伏見の戦いや会津戦争では、砲兵隊長として転戦して、戊辰戦争後、鹿児島に帰って12ドイム臼砲や四斤山砲を改良した「弥助砲」を開発している。

 維新後の1870年(明治3年)8月に弥助は、さらなる近代兵器の研究のために、半年ほどアメリカとヨーロッパの海軍造船所や武器製造工場や大砲鋳造工場などを見て回った。また普仏戦争の視察を命ぜられて、ドイツが勝利したことにより、日本陸軍を、それまでのフランス軍制からドイツ軍制に改めるようにした。

 帰国して8か月後、29歳の弥助は、再度ヨーロッパに軍事留学をした。フランス語を学びながら近代兵器や軍制の研究をしていたが、親友の吉井幸助が突然訪ねてきた。

                ooyamaphoto[1]  

        若き日の大山巌


 吉井によると、日本の国内では「征韓論」に敗れた西郷隆盛が、中央政府の職を辞して鹿児島に帰郷した後、それに続いて薩摩系の政治家・軍人・官僚約600名が大量辞任して、日本政府は不穏な事態となっていた。岩倉具視が、もはや西郷を説得できるのは、従兄弟の大山弥助しかないとして、吉井を送ってきたのだった。

 弥助は、「国家の重大事である」と言われて、日本に帰国した。この時、大山巌に改名して、すぐさま鹿児島に行って、西郷を一か月間にわたって説得したが、西郷の決心は揺るがなかった。ならば大山は「西郷どんと運命を共にしたい」と申し出たが、西郷は首を横に振って「おはんは、これからの日本に必要な人材じゃ。東京におって、天皇陛下のお役に立たにゃなりもうさん。おいの役にはたたんでも、よか」と答えた。それでも大山は重ねて「おいの命、兄さぁにお預けしもす」と言うと、西郷は、立ち上がり「ならん、断じてならん。帰れっ、東京に帰れっ」と叱りつけた。帰り際に、これが西郷との今生の別れになるかもしれないと思うと、大山は涙が溢れ出て止まらなかった。

 1877年(明治10年)2月、ついに西南戦争が勃発して西郷軍約3万人が、東京を目指して北上した。これに対して征討の詔勅が出されて、政府軍は、約8万人の軍隊を編成して討伐に当たった。政府軍の装備は、6秒で1発撃てるスナイドル銃が主力で、最新式のガトリング砲もあって圧倒的な軍備を持っていた。熊本城の攻防戦や田原坂の戦いなど、半年以上にわたる熊本での激戦の末に、西郷軍は敗れて鹿児島に戻ると、城山に立てこもった。この城山攻撃の命令が、非情にも政府軍の攻城砲隊司令長官であった大山に下った。9月24日の早朝から総攻撃を開始して、明け方には城山は落ちて、西郷隆盛は自刃して果てた。

 城山の戦いが終わるとともに、大雨が降った。大山の姉が泣きながら「なぜ西郷を殺したかっ」と弟の巌を責めたてた。「兄さぁ」と慕った隆盛が、このような運命になることは、誰よりも大山巌自身が辛かったが、軍人として一切の弁解をしなかった。この西南戦争の後から、大山は、人が変わったように巌の名のように寡黙となり、2度と鹿児島に帰ることはなかった。ただし親戚の西郷従道とは、いつもウマが合い盟友関係であった。続く

 

 

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