FC2ブログ

記事一覧

明治国家を守った軍人シリーズ②満州原野の戦いと児玉源太郎B

 児玉は、大山総司令官と相談し、急ぎ東京に戻って、新橋駅に出迎えに来た参謀本部次長の長岡外資少将に「長岡あ、バカかあ、おまえ、なにをぼやぼやしとる。火をつけたら消さにゃならんぞ。消すのが肝心ちゅうに、何もしとらんのは、バカの証拠じゃないか」と、どやしつけた。

 児玉が、山県参謀総長と寺内陸相に、満州の戦いの実情を詳しく説明すると、二人は児玉の言う日本軍の継戦能力が払底していたのを初めて知った。海軍大臣の山本権兵衛が、児玉の意見に「それはもっともでごわす」と、賛成したこともあって、総理大臣の伊藤博文も、これを了解した。すぐさまアメリカに派遣している金子堅太郎に打電して、セオドア・ルーズベルト大統領に日露講和の働きかけをしてもらうように指示したのである。

 これでアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に仲介を頼んで講和を急ぐという基本方針は決まったが、まだ余力を残しているロシアを講和に追い込むためにも、児玉は、すでに手を打っておいたのである。

 それはロシアとの開戦時に、明石元二郎大佐に100万円の工作資金を渡して、「帝政ロシアの後方を攪乱せよ」と命令していたのであった。その資金で明石大佐は、ロシア帝政を倒そうとする国内の革命勢力を支援したり、独立を目指すフィンランドやポーランドを支援して、背後からロシア帝国を揺さぶろうとしたのだ。

 そんな中、1月に、あの「血の日曜日事件」が起きて、それがロシア全土に暴動が広がっていった。これによって「日本と戦争を続けている間に、帝政ロシアそのものが危なくなる」と、ロシア皇帝は怯えたのであった。

 5月27日、地球を半周して、日本海にやってきたロシア皇帝の最後の希望を担っていたバルチック艦隊が、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊と遭遇して日本海海戦が行われた。その結果、秋山真之参謀の「丁字戦法」によってバルチック艦隊のほとんどが撃沈され、または捕獲されて、かろうじて数隻がウラジオストックに逃げ込んだ大敗北を喫したのである。 

 この日本海海戦の日本完勝の帰趨をもって、ついにロシア側が講和会議の交渉のテーブルに着いた。1905年(明治38年)9月4日に、セオドア・ルーズベルト大統領の調停によってアメリカ東部の港湾都市ポーツマスで、ロシアとの休戦が成立し、10月に講和条約が批准されて、ようやく日露戦争が終結したのであった。

 この知らせを受けて児玉は、男泣きに泣いたという。日露戦争の初めから最期まで、全責任をもってトータルに戦略を推し進めていたシンフォニーのコンダクターマスターのような存在であったからである。

 「日本の国家存亡の重責を一心に担った児玉のプレッシャーは、いかばかりであったろうか?」こうして日本は、何とかロシアに辛勝して、属国にならずに済んだのである。

 それを見届けると、児玉は、安心したかのように、日露戦争が終わった10か月後に、ベットの中で脳溢血で倒れて、そのまま忽然として、この世を去ったのである。享年55歳であった。

 「日露戦争は、参謀の児玉源太郎がいたからこそ、勝てた」とも言われている。また児玉は「日露戦争のために天から遣わされた人」と称された。まさに日本の国難を救うためだけに生まれてきたようなミステリーな男の一生だった。               0048_r[1]

 大川隆法総裁による霊査では、児玉源太郎の過去世は、5代将軍・徳川綱吉、その前は高句麗の広開土王、そしてその前はインドのアショカ大王であった。また乃木希典は、南朝の忠楠木正成である。           完 

 

 

 

スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

安田一悟

Author:安田一悟
FC2ブログへようこそ!

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
政治・経済
296位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
79位
アクセスランキングを見る>>

来場者数