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明治国家を守った軍人シリーズ①203高地の戦いと児玉源太郎A

今から40年ぐらい前になるだろうか、友人と長州巡りの旅をしていた時に、徳山市(周南市)内で、ふと神社に立ち寄ったことがある。

その神社は、あの日露戦争を勝利させた最大の功労者である参謀児玉源太郎大将を祀った神社であった。

もともとは江の島にあった児玉神社から分祀して、地元の有志達によって、旧邸宅地に建てられたそうである。

 「そうか、徳山は、児玉源太郎の出身地だったのか」と思い、日本を救ってくれた祭神・児玉源太郎に手を合わせた思いでがあった。

 その児玉源太郎が、参謀総長の大山巌からの要請を受けて、参謀次長に就任したのが、日露戦争開戦の、わずか4か月前であった。

 日清戦争を勝ち抜いて「陸軍の至宝」と言われた、参謀総長の川上操六が、50歳という若さで亡くなったので、日本陸軍は、急きょ大山巌を参謀総長にして、「今信玄」と呼ばれた田村伊与造を参謀次長に任命した。

 その田村が肺炎で急死してしまったので、またしても日本は、対ロシア戦の参謀を失ってしまった。この国難にあたって、これを乗り切るには「児玉源太郎しかいない」と言うことで、白羽の矢が立ったのである。

       kodama_l[1]児玉源太郎 

 思い起こせば児玉源太郎が、32歳の頃、1885年(明治18年)3月に、ドイツ陸軍の参謀メッケル少佐が日本陸軍学校で、近代兵学を教えるために来日した。これが児玉源太郎と42歳のメッケル少佐との運命的な出会いであった。

 メッケル少佐といえば、ドイツ参謀本部の参謀総長モルトケの愛弟子で、最優秀と言われた軍人であった。そのメッケル少佐から児玉源太郎は、3年間にわたって昼夜傍にいて、軍事英才教育の薫陶を受けたのである。

 メッケル少佐は、児玉を評して、「参謀としても、軍司令官としても、理想的な天分に恵まれている。児玉は必ず将来の日本陸軍を担う人材となるであろう。彼のような英才が、もう2,3人いたならば…」と、予言した。それほどメッケルは、児玉の才覚に期待したのであった。

 さらに1904年(明治37年)2月9日、日本が、ロシアに対して宣戦を布告した時も、すでに少将となっていたメッケルは、他国の軍事専門家たちが「ロシア軍が圧倒的有利」と見ている時に、ドイツの記者団たちに「日本陸軍には、わたしが育てた軍人、特に児玉がいる限り、ロシア軍に敗れることはない、児玉将軍は、必ずロシア軍を満州から駆逐するであろう」と、断言していたのだった。

 事実、歴史は、その通りとなったのである。

 そしてメッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を、参謀次長の児玉宛に送ったのである。児玉自身も、来る日も来る日も「日本が、大国ロシアに、どうしたら勝つことができるか?」だけを徹底的に考え続けた。

 まず「18億円」と言われる膨大な戦費の調達が必要であった。これは当時の日本の国家予算の約6倍という気の遠くなる額である。

 児玉は、財界の中心人物であった渋沢栄一の自宅を2度まで訪問した。渋沢は「日本が勝つ見込みはどうか?」と率直に聞いた。「今なら何とかやれる。日本は、ここで国運を賭して戦う以外に道はない」と、児玉は答えた。

 渋沢は、少し考えた後に「児玉さん、私も国家のために働きます。どんな無理しても戦費調達をしましょう」と、言ってくれた。まず財界のリーダーが協力してくれたのである。

 この後、日銀副総裁であった高橋是清が、「日英同盟」を結んでいた英国に渡って、ユダヤ系のジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会などから「13億円」の戦時外債の調達に成功したのは有名な話である。

 次に児玉は、海軍大臣の山本権兵衛を訪ねた。対ロシア戦の最大の課題は、陸軍と海軍が、どれだけ協調できるかであると考えていた児玉は、山本に「陸海軍の対等の話」を持ちかけたのである。山本は、これに納得して日本の国難に際して、陸海軍が全面的に協力し合うことを了解したのであった。

 こうした児玉源太郎の交渉努力によって日本の政界・財界・軍人界の総力戦体制が整ったのであった。続く

 

 

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