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明治維新150年シリーズ⑩聞多の強運A

  明治政府の宮内省に図書頭の児玉愛次郎という人物がいた。同じ長州藩の井上馨が引き上げた者であったが、実はこの人物こそ、若いころの井上を襲撃して瀕死の重傷を負わした謎の人物だったのである。

 児玉は、襲撃から30年もたったころに、共通の友人である杉孫四郎を通して井上に謝罪した。30年間も、その事実を隠し続けて、井上の世話になっていたとは驚きである。

 しかし児玉は良心の痛みは感じ続けていて、ついにこらえきれなくなって告白したのであろう。このことに対して、井上馨の偉いところは、とがめることもなく許したことである。

 この児玉の証言で、井上襲撃の実行犯が特定され、当時、長州の藩政を握っていた俗論派からの命令で中井栄次郎と周布藤吾の3人で襲撃したことが判明したのである。

 中井栄次郎は、俗論派のトップの椋梨藤太の次男であり、藩主毛利敬親の小姓でもあった。中井は、人を切ることを何とも思わない性格で、井上の襲撃に一番かかわった人物で、高杉らがクーデターで藩政をひっくり返すと、父の椋梨藤太とともに処刑されている。

 また周布藤吾は、執政で藩の混乱で切腹に追い込まれた周布政之助の長男で、第2次長州征伐の時には、井上の配下として参戦して討ち死にしている。

 児玉は、中井に誘われたので、やむなく参加しただけで手は下していなかったという。

 この井上聞多が暗殺未遂にあった「袖解き橋の遭難」の詳しい顛末は、こうである。

         349[1] 井上聞多

 幕府による第1次長州征伐の命が下された際の1864年9月25日に、藩主の毛利敬親が家臣たちに「幕府に対して、長州藩がどのように対処すべきか?」という諮問した際に、俗論派は「幕府に恭順」を主張し、イギリスから急きょ帰国してきたばかりの井上聞多は「武備恭順」を強張したところ、毛利敬親の判断によって「武備恭順」が藩論と決定されたのであった。

 しかしこの藩論を快く思わなかった俗論派たちによって井上聞多の暗殺が決行されたのである。

 この会議が終わったのは夜の20時過ぎであった。井上が湯田の自宅へ約2キロの帰路の途中、袖解橋に差し掛かった時に「聞多さんじゃありませんか?」と、声をかけられたので、「そうじゃ」と答えるや、後ろにいた男が聞多の両足をつかんで前につんのめらせた。すかさず男が、聞多の背中を斬り伏せたが、うつぶせになった時に差していた刀が背中に回っていたので、これをカチッと防げた。

 気丈にも聞多は、立ち上がって刀を抜いたが、それを見た中井が「それ抜いたぞ、やれやれ」と言って斬り込んでいった。聞多の後頭部に刀が振り下ろされ、さらに顔面も斬られた。

 聞多は、「このままで終わるわけにはいかない」と思いながら逃げて、里芋畑の中にゴソゴソと入っていった。辺りは真暗闇である。

 襲撃者たちは、高くなっていた里芋畑の中を探し回ったが、聞多は、どこにも見つからなかった。

 「ここは井上の生家ある近くだから、井上は、土地のことは、よく知っている。ぐずぐずしていてはまずい。ひとまず、ずらかろう」と中井が言うと、それぞれ散乱した。

 多量の出血で意識を失って里芋畑の中に倒れていた聞多の意識が戻ると、体中が劇痛する、何よりも激しい渇きで、喉が渇いてたまらない。手前に見覚えがある百姓家の灯が見えた。聞多は、はって行き、その百姓家にたどり着いた。

 「おお、井上の若旦那。どうして、またこれは」と驚く百姓に手真似で、やっと一杯の水をもらい受けて、そのまま気絶した。百姓たちの手で井上の自宅に運び込まれた。

 まもなく母親と兄が2人の医者をつれてやってきた。瀕死の重傷だったので、聞多は覚悟して兄に介錯を頼んだが、兄が刀を抜いて介錯をしようとしたが、その時、母親のお勝が聞多に覆いかぶさり「待っておくれ、お医者もここにおられる。たとえ治療の甲斐がないにしても、できるだけの手を尽くさないでは、この母の心がすみません。それに死んだら、お国のためにも尽くせません。さぁ、斬るなら、この母ともろともに斬っておくれ」と、あくまでも子を助けようとする母親の一念に兄は思いとどまった。

 もしこの時に母親が、そのような行動を取らなければ、井上聞多は、志半ばで命を落としていたであろう。そうすれば明治維新後の活躍もなかったであろうことを考えると、母親は偉大であると言わざるを得ない。

 それに聞多は、天運よく、友人の所郁太郎という緒方洪庵に学んだ外科医が駆け付けてくれた。所は、ありあわせの小さな畳針と傷を焼酎で消毒して、大きい傷6か所を4時間ほどかかって50針ほど縫い合わせた。

 不幸中の幸いというべきか、聞多は、馴染みの芸子の君尾から金属製の鏡をもらって懐に入れていたのが、それがずり落ちて腹にあったので急所を防げて致命傷から外れていた。

 それから数十日、母親の必至の看病と所の手当てによって、不思議にも聞多は一命をとりとめたのであった。

 この母を慈愛の看護を聞くや井上は病床で「聞多、30歳の壮年に及んで、何一つ親孝行も尽くさないのに、今、母親の力によって、万死に一生を得ようとは」と、さめざめと泣いた。

 だが名医の所は、遊撃隊の参謀でもあったが、翌年の春、腸チフスで亡くなっている。享年28歳であった。山口市湯田の井上馨邸跡は、現在は井上公園となっていて、命を救ってくれた所郁太郎に感謝する顕彰碑が建てられている。     20151024150936909[1]

 聞多の暗殺未遂の翌朝、正義派の執政であった周布政之助が謎の自刃を遂げた。藩政の混乱による責任を取ったと言われているが、どうもそれだけではないらしい。息子の藤吾が聞多を襲撃したことで責任を取ったのではないか?

 なぜならば聞多は、周布政之助を通じてイギリス留学を藩に嘆願して、伊藤ら5人とともに密航できたからである。

 ともかくも、この周布の自刃によって藩政は椋梨藤太らの俗論派が実権をにぎることになり、聞多の怪我は奇跡的に回復したが謹慎処分となった。

 12月15日に長府の功山寺で奇兵隊の高杉晋作が挙兵した。絵堂・大田の戦いで俗論派の藩正規軍との戦いに勝利した正義派が再び長州藩の実権を握ると、藩論は開国・討幕に統一された。

 1866年6月に、第2次長州征伐が決定されて、この迫りくる15万人の幕府軍に対して、すでに3月には「薩長秘密同盟」が締結されていて、井上聞多は、伊藤俊輔とともに坂本龍馬の仲介で、長崎のグラバー商会から小銃と汽船を購入して長州防備に備えた。

 このように井上聞多は、長州藩のために命を賭して行動できる人物であったが、その才能を十分に発揮できたのは、明治維新になってからの政治家としての働きだった。続く

 

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