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明治維新150年シリーズ⑦利助の大出世B

 明治維新以後、俊輔は「伊藤博文」と改名して、長州閥の有力者として、英語力を買われて、外国事務総裁の東久世通善に見出されて、神戸事件と堺事件に奔走した。

 伊藤は、参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事、工部卿、宮内卿などの要職を次々と歴任していった。これには木戸孝允の後ろ盾があったからである。

 1870年(明治3年)に工部省が出来て、伊藤博文は、工部卿として殖産興業を推進する。工部省は後に内務省へと引き継がれる。

 同年11月から5月まで財政・貨幣制度の調査のために渡米して、ナショナル・バンクについて学んで、帰国後に伊藤の建議により、日本初の新貨条例が制定された。

 1871年11月に、伊藤博文は、「岩倉遣欧使節団」の副使として渡米し、サンフランシスコでは、有名な「日の丸演説」を行う。ドイツでは宰相ビスマルクと会見して強い影響を受けた。              ito01[1]

 この「岩倉遣欧使節団」による視察旅行で岩倉や大久保と親密になったことは伊藤にとって大きな収穫であった。

 帰国後に「征韓論」論争では「内治優先」から岩倉や大久保や木戸らを支持したことで、これらの政権の重鎮から信任を得られるようになったからである。

 伊藤が、大蔵兼民部少輔を務めた時には、岩倉使節団でアメリカの鉄道の発展をまざまざ見たことから、殖産興業政策には、まず鉄道建設が必要であるとして、これを強力に推し進めて、品川から横浜間で仮営業を始めて、新橋まで全線が開通させた。

 また盟友の井上馨とともに大久保利通と木戸孝允の間を取り結んで1875年に「大阪会議」を斡旋した。

 1877年(明治10年)に木戸が病死し、「西南の役」で西郷が敗死し、翌年に大久保利通も暗殺されて、これらの維新の三傑なき後に、岩倉具視から期待されて、伊藤博文は、参議兼内務卿に推され、開明派として国策を押し進めた。

 伊藤博文は、大隈重信の早期国会開設とイギリス型政党政治の意見には、時期尚早として反対し、漸進的な国会開設論を唱えて、明治13年10月に大隈を罷免して下野させた。

 しかし1890年(明治23年)に国会を開設することを約束した。これには薩摩閥の黒田清隆や西郷従道と提携したことで成し遂げられたのである。

 1882年(明治15年)3月、明治天皇に命じられて、伊藤博文は憲法調査のために10人の随行員とともに渡欧した。

 ドイツではグナイストに教示を乞い、モッセからプロイセン憲法の講義を受けた。またオーストリアではシュタインに歴史法学や行政について学んだ。

 伊藤は、プロイセン流の立憲君主制を取り入れて、これからの日本の政治には立憲君主政治こそが、ふさわしいと確信した。

 帰国後、伊藤博文は、近代的な内閣制度を創設して、「大日本帝国憲法」の起草・制定の中心的役割を果たした。

 1885年(明治18年)12月に太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議で、盟友の井上馨が「これからの総理は、赤電報(外国の電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切ると、山県有朋が「そうすると、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成した事によって、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任した。この時、伊藤は、まだ44歳であった。

 第1次伊藤内閣では、憲法発布前の下準備の機関創設に奔走し、1886年(明治19年)2月には各省官制を制定し、3月に将来の官僚育成のために帝国大学を創設し、翌年3月には国家学会を創設した。

 1887年(明治20年)6月から伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。

 1888年(明治21年)4月、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために総理を辞任した。

 1889年(明治22年)2月、黒田清隆内閣の下で、「大日本帝国憲法」が発布された。伊藤博文にとっては感無量であったことであろう。

 1892年第2次伊藤内閣を発足させて、陸奥宗光を外務大臣にして治外法権を改正させる。8月に日清戦争が起こり、これに勝利して1895年に4月に下関条約に調印する。戦後は自由党と連携して連立内閣を創る。

 第3次伊藤内閣を組織したが、地租増徴に失敗し、元老たちの反対を押し切って、大隈と板垣を押して、日本最初の第1次大隈憲政政党内閣を実現させた。

  ito[1]

 1900年(明治23年)9月に、自らも政党「立憲政友会」を創設して、初代総裁を務めて、第4次伊藤内閣を組織し、明治立憲制のもとで政党政治の道を開いた。政友会は、その後、西園寺公望や原敬らが中心となった。

 1904年(明治37年)の日露戦争開戦の決定に参画し、すぐさま金子堅太郎をアメリカに派遣し、セオドア・ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼した。これが翌年のポーツマス条約に結びつくことになるのである。

 日本は、辛くもロシアに勝利したが、ロシアとの交渉が容易ではないことを知っていた伊藤は、講和の全権大使に選ばれた小村寿太郎に対して「君の帰朝の時は、他人はどうあろうと、吾輩だけは、必ず迎えに行く」と語って励ましている。

 1905年(明治38年)11月、第2次日韓協約により韓国統監府が設置されて初代総監に就任する。

 1909年(明治42年)10月ハルピン駅で安重根に暗殺される。享年69歳。日比谷公園で国葬が営まれた。

 このように見てみると、伊藤博文の人生も、また面白い。何せ百姓という最下層から昇りつめてトップの初代総理大臣になってしまった男だからである。そんな日本人は、過去には豊臣秀吉がいて、後に田中角栄が出てくるぐらいである。

 伊藤博文は、国際感覚を備えた穏健な開明派の政治家で、日本の近代化の舵を切り、憲法を制定させて、日本に立憲政治を定着させた功績は大きい。

 その伊藤博文が1000円札になったことがあった。  itouhirohumi01[1] (1963年から1984年まで)シンプルで綺麗なデザインで、著者は気に入っていたが、いつの間にか夏目漱石、野口英世と変わってしまった。

 アメリカでは1ドル紙幣がワシントンとかフランクリンと変わっていないのと対照的である。海外では一番多い紙幣の肖像画は、その国を興した政治家や元首である。しかるに日本では明治の宰相や政治家を紙幣に載せられない。「こういう国は、他にあるんでしょうかね?」  

 伊藤博文は、朝鮮半島には誤解から憎んでいるものが多くいるが、日本人は、そうではない。憎めない人物である。自分を飾るところもなければ、威張ることもない人物で、著者は愛すべき人物だと思っている。

 しかし、もう一つ国民に人気がないところがあるので、見直してみなければならない政治家であると思って書いてみた。 完

 


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