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明治維新150年シリーズ7⑦利助の大出世A

  利助は、1841年(天保12年)10月16日に周防国の熊毛郡(現在の山口県光市)の百姓・林十蔵と琴子の長男として生まれた。父の十蔵が破産して萩に赴任したために、母の実家に預けられたが、9歳の時に、父に呼び出されて萩に移住した。利助の出世は、この萩から始まるのである。

 利助が12歳の時に父の十蔵が、中間の水井武兵衛の養子となり、その武兵衛が、足軽・伊藤弥右衛門の養子となったために、十蔵父子も伊藤家に入った。利助は、2度も養子になって、やっと足軽という下級武士になれたのであった。    ito04[1] 伊藤利助

 1852年2月、利助が江戸湾の警備のために相模に派遣されていた時に、上司として赴任してきたのが、来原良蔵(くるはらりょうぞう)であった。この来原との出会いから始まって、利助の人間関係が次々と変わって行くたびに、なぜか出世していったのであった。

 まず来原の紹介で、松下村塾に入門する。これが師・吉田松陰との出会いであった。しかし村塾が手狭であったことと身分が低かったので、縁側で講義を聞いていたという。ここで稔麿とも友人になった。

 師の松陰は「利助、また進む。なかなか斡旋家(政治・外交家)になりそうな」、「才劣り、学幼きにも、質実にして華なし、僕、すこぶる、これを愛す」と評して、俊英の俊を与えられて「俊輔」と改名した。

 この松陰の推薦で、俊輔は、1858年7月から10月まで長州藩の京都派遣に随に行し、帰藩後は59年6月まで来原に従って長崎に遊学できた。そこで初めて外国人を見たことは衝撃であったに違いない。

 さらに10月から俊輔は、来原の義兄であった桂小五郎の従者となって、今度は長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここでまた志道聞多(しじもんた。井上馨)と出会い、生涯の親交を結ぶのである。

 師の松陰が安政の大獄で処刑された際に、俊輔は、桂とともに遺骸を引き取りにいった。

 それから桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨らと尊王攘夷運動にに加わると同時に、来原に当てた手紙では、イギリスに留学を志願している。

 その来原良蔵が何と藩邸で自害してしまう。自分を育ててくれた松陰や来原が、この世にいなくなってしまった。俊輔は、さぞかし寂しかったことであろう。

 12月には、俊輔は、気が進まなかったが、高杉らと共に品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加している。この頃、俊輔の心は、攘夷と留学との狭間で揺れ動いていたことであろう。

 伊藤俊輔は、不思議と、いつも時代が動く最先端のところに立っていた。松下村塾しかり、桂小五郎や高杉晋作や井上聞多との出会い、しかりである。

 1863年に、その井上聞多の勧めで、伊藤俊輔は、遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(井上勝)らの4人とともに念願であったイギリスに密航留学する。 

             BvCegn0V_400x400[1]伊藤俊輔

 ロンドンで化学者ウィリアムソンの邸に滞在しながら英語や礼儀作法を教わり、海軍施設や工場などを見学し、博物館や美術館にも通う。

 この留学中に伊藤は、イギリスと日本の圧倒的な国力を見聞して、もはや「日本は、開国しかない」ことを悟る。わずかな留学期間であったが、英語を身に着けたことが、伊藤俊輔を、さらに出世させるのである。

 1864年3月、米英仏蘭の四国艦隊による長州藩攻撃が近いことを新聞で知ると、伊藤は、井上とともに急いで帰国して、戦争回避のために奔走した。しかし馬関戦争が始まり、四国艦隊の圧倒的な砲撃力で、長州藩の砲台は徹底的に破壊し尽くされた。

 伊藤は、高杉の通訳として和議を交渉して、賠償金については「幕府が、朝廷に言われて起こした攘夷である。幕府が、やれと命令したので長州藩はやっただけである。したがって賠償金は、幕府が払うべきである」と主張し通して幕府に賠償金を支払わせたのである。

 この馬関戦争と禁門の変で大打撃を受けた長州藩では、幕府に恭順する俗論派が実権を握って、9月に盟友井上聞多が俗論派の夜襲で重傷を負うと、高杉と伊藤は、身の危険を感じて、しばらく筑前に行方をくらました。

 12月15日に、高杉晋作が「功山寺で挙兵」すると、伊藤は、すぐさま力士隊を引き連れて挙兵に加わった。

 「私の人生で、唯一誇れることが、あるとすれば、この時、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と、後に伊藤博文は述懐している。わずか80余名で立ち上がり、下関の新地会所を襲って武器を手に入れた。

 そして挙兵した趣旨の高札を掲げて、同様の文書を奇兵隊と諸隊に送ると、山県の奇兵隊なども次々と加わってきた。狭隘な絵堂の地で、俗論派1000名の追討軍に対して奇兵隊等200名が、奇襲をかけて敗走させた。

 さらに10日間あまりの大田の戦いに勝利して、萩の俗論派を倒して正義派が藩政を握り、長州藩は討幕へと舵を切った。藩主の毛利敬親は「そうせい」と言った。

 幕府が第2次長州征伐を決めると、伊藤は、井上とともに持ち前の英語力を生かして、長崎のグラバー商会から薩摩名義で、亀山社中を仲介して最新式のミニエー銃や軍艦を購入する任にあった。

 これによって、それまで険悪であった薩摩藩と長州藩の関係が修復されて、坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」が結ばれた。

 長州藩は、この士気の盛り上がりと最新式の武器力によって四境戦争で、15万の幕府軍を撃退した。続く

 

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