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明治維新150年シリーズ⑤岩倉具視と王政復古の大号令A

 岩倉具視、この男無くして「幕末」の総仕上げと「明治政府」初期の政体は語れない。しかし岩倉は「明治維新」直前まで5年間も京都洛北の岩倉村で蟄居生活を余儀なくされていたのであった。

       iwakura1[1] 岩倉具視

 だが幕末に「薩長秘密同盟」が成立し、時勢が「倒幕論」へと急転回したので、岩倉具視が表舞台へ引き出されたのである。

 朝廷内での岩倉具視の実力を知っていた公家たちや薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の桂小五郎や土佐藩の中岡慎太郎や坂本龍馬が、洛北の岩倉宅へとひそかに訪れるようになっていった。43967_126812150317222707738_300[1] 岩倉宅

 まだその頃、岩倉は、政治活動の表舞台に出れる立場にはなかったので、「明治維新」の推進にかかわった、これらの志士たちと接触しながら「建策」などの執筆活動を続けていた。

 岩倉具視は、薩摩藩の藩論の動向に呼応する形で「公武合体派」から「雄藩連合派」を経て「倒幕派」へと転じていったが、「尊王」と「開国」という根幹の思想だけは、終生変わることはなかった。

 そうした中で、歴史の舞台は、突然回天し始めたのであった。12月25日に「朝廷内の最大の障害物」と秘かに言われていた孝明天皇が、突如天然痘により崩御されて、代わって1867年1月9日に、明治天皇が15歳にして新帝に即位されたのである。

 この新帝即位による大赦で、1863年の「8月18日の政変」や「禁門の変」にかかわった公家たちが赦免されたが、岩倉や久我や千種や富小路らのながら四公家は、なお赦免されずに、この間の10月14日に徳川慶喜による「大政奉還」がなされたのであった。

 11月15日に京都の近江屋で、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたことを知った岩倉具視は「誰が余の片腕を奪い去ったのか?」と痛恨して嘆いたという。

 19日付の大久保利通にあてた手紙には「坂本横死、我もじつに遺憾切歯の至り、何卒真っ先に復讐しがたきものに候」と書かれているから、余程悔しかったのであろう。

 しかし岩倉具視の政治的凄みは、これから発揮されるのである。

 まず12月8日の深夜の朝議において、岩倉具視ら謹慎中の公卿の処分解除が決定されると、翌9日未明に公卿たちが退廷した後を見計らって岩倉が、堂々と宮中に参内した。

 薩摩藩などの軍勢が御所の9門を固めて立ち入り禁止した後、明治天皇臨御の下に、電光石火のごとく「王政復古の大号令」が発令されて「明治新政府」の樹立がなされたのである。

 これによって260年にわたる江戸幕府の将軍職が廃止されて、新たに新政府の総裁・議定・参与の三職が発足して岩倉が議定に就任したのである。

 すかさずその晩に、新三職による初めての「京都小御所会議」が開かれた。まず公家側が「徳川慶喜は政権を返上したというが、明治天皇に対する忠誠の心から出たものかどうか疑わしい。その忠誠の心を実際をもって示すべきである」との議題を出してきた。

 これを土佐藩主の山内容堂が制して「この会議に、これまで功績があった徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会を与えないことは、すこぶる陰険である。これは数人の公家たちが、幼仲の天子を擁して権力を私しようとしているだけではないのか?」と発言した。

 この発言に対して議定の岩倉具視が「幼仲の天子とは何事か、無礼であるぞ。帝は英主であられる。今日の会議は、すべて帝のご決断である」と得意の「切り口上」で、強烈に叱りつけたために、容堂は、自らの天皇に対する失言を、その場で謝罪した。

 岩倉・大久保側は、あくまでも「慶喜が、本当に反省しているならば、自ら官位を退き、朝廷に土地を返納すべきである。まず辞官・納地に応じることが朝議の参加の前提である」と押し通して、慶喜側を擁護する容堂・春嶽側と激論した末に、いったん会議は休憩に入った。

 この休憩中に、薩摩の岩下佐次右衛門が、御所の周りを警護していた西郷隆盛に会議の様子を報告した。

 すると西郷は「そんなことは短刀一本あれば済むことではないか。このことを岩倉公にも一蔵(大久保)にも伝えてくれ」と凄みのある言葉を放ったので、岩下は、西郷の言葉を岩倉や大久保に伝えた。

 これに意を得た岩倉具視は、芸州藩主の浅野茂勲(しげこと)を呼んで「この会議での妥協はあり得ず、いざというときは非常手段を取らざるを得ない」との覚悟を語って茂勲の理解を得た。それを家老の辻将曹が、土佐藩の家老の後藤象二郎に伝えて主君の容堂を説得させたのである。

 すでに御所の周りには西郷隆盛が率いる薩摩藩兵3000人が取り囲んでいた。容堂と春嶽は、これ以上反論すれば、自らの命の危険に陥ることを悟って、慶喜を擁護することを諦めた。

 この「京都小御所会議」において、将軍慶喜に辞官・納地させることを決定し、名実ともに徳川幕府を追い詰めたのである。

 まさに岩倉具視が、5年間の蟄居生活で、ため込んでいた、すべてのエネルギーを爆発させた感のある政変であった。これが世にいう「王政復古のクーデター」であった。 完 

 


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