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明治維新150年シリーズ④「西郷どん」を支えた薩摩藩家老・小松帯刀B

  1866年6月の第2次長州征伐には、薩摩藩や芸州藩が参加を拒否したために、幕府軍が15万人という圧倒的な大軍であったのに全然士気が上がらず、かたや1万人足らずで藩を守るのに必死の長州軍の方が、最新式のミニェー銃などを駆使して戦ったことで、幕府軍が完全に撃退されてしまった。

  さらに大阪城で戦況を見届けていた将軍・徳川家茂が突然病死したので休戦命令が出されたのである。

 この長州征伐の敗北によって幕府の権威は地に堕ちて、小松は「もはや倒幕して、朝廷を中心とした新しい政体を造るしかない」という考えのもとに「討幕の密勅」の降下を願うべく、大久保利通とともに公卿の岩倉具視を動かした。

  そして10月14日に薩摩藩と長州藩に対して「討幕の密勅」が降下されて、小松は、薩摩藩を代表して西郷、大久保とともに署名している。

 ところが、慶喜は、土佐藩の山内容堂の建白を受け入れて、幕府が政権を朝廷に返還する「大政奉還」に踏み切った。この慶喜の思い切った先手行動は「武力倒幕」を考えていた朝廷や薩摩や長州に少なからずの衝撃を与えた。

 幕府が「大政奉還」を諮問するために、翌日、二条城へ急きょ集められたのは、約40藩の重臣たち50名ほどであった。老中の板倉勝静が、二の丸の大広間に出座して、重臣たちに「それぞれ書付3通を渡すので、考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞きあそばされる」と説明した。

 あらかじめ、この「大政奉還」のことを想定していた薩摩藩の小松帯刀や土佐藩の後藤象二郎など6人が大広間に残って、将軍・徳川慶喜と面会して、それぞれの藩の意見を述べることになった。  mig[1] 徳川慶喜

 小松帯刀は、薩摩藩として躊躇なく慶喜公に将軍職を辞職することを献策した。さらに親幕派であった摂政の二条斉敬には「『大政奉還』の上奏を、朝廷として受理するように、さもなければ薩摩藩としては考えるところがある」とまで脅迫した。

 小松帯刀は、サトーから「幕府が大政奉還により公権力の名分   を失った後に、武力でもって幕府を倒す」という「2段階革命論」をアドバイスされていたので、倒幕の絶好機が到来したとして、すぐさま西郷と大久保を率いて国元の薩摩に戻って、国父の久光と藩主の忠義(茂久)に、早急に薩摩の最大兵力を率いて上洛することを説得したのである。

 1867年11月に藩主忠義が、薩摩兵3000人を引き連れて上洛する際に、長州藩の三田尻に立ち寄って世子・毛利広封(ひろあつ 元徳)と会見して薩長の出兵協定を結んだことによって一層「同盟」の力が推進された。

 この薩摩の軍勢3000人が入洛することによって、軍事クーデターが可能となって、1868年(明治元年)12月9日に明治天皇による「王政復古の大号令」が発令されて、 

                        meizitennou500[1] 明治天皇

 その晩の「京都小御所会議」において徳川慶喜の辞官・納地の重大決定がなされたのである。

 これを不服とする大阪城に待機していた慶喜の率いる幕府軍1万5000人が討薩表を掲げて入京してきたが、薩長軍は1月2日の「鳥羽・伏見の戦い」で、幕府軍を敗退させて、武力でもって「明治維新」を確定させたのであった。これら一連の倒幕の仕上げでの薩摩藩家老・小松帯刀の迅速な活動は目を見張るべきものがある。

 明治維新後、小松帯刀は、新政府の参与と総裁局顧問の要職を歴任した。フランスが幕府の借金を新政府が返済しないならば、横須賀造船所を差し押さえると脅した際に、小松と大隈はイギリスから資金を借りてフランスに返済した。またグラバーや五代とともに、日本で始めて西洋式ドックを備えた小菅修船所を建設した。これらの行動は、小松が「薩英戦争」の敗戦から学んだ教訓であった。

 1869年(明治2年)1月には、小松は、自分が病気で余命いくばくもないことを知って、大久保に早く「版籍奉還」を実行するように催促して鹿児島に帰る。久光にも「版籍奉還」を説得し、率先して自らの領地を返納した。

 1870年(明治2年)7月、下腹部の腫瘍が悪化して、大阪にて病没した。幕末を全力疾駆したかような小松帯刀の、あまりにも早すぎる死であった。完

          

 

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